(108) 浄土について色々考えさせられる
宇治・平等院の樹木

中学校時代の同窓会が宇治で開かれました。宇治と言えば奈良と京都の中間にあり、日本の豊かな歴史・文化の地ですが、そこにある樹木も多くの秘められた歴史・伝説・文化を語り伝えていることでしょう。この機会を利用し、宇治の樹木を探訪しました。まず初めに平等院を訪ねました。

  

 (108-1) 平等院のフジ(藤)
 宇治と言えば平等院。平等院と言えば鳳凰堂があまりにも有名ですので、そこにどんな樹木があるか、ご存知の方は少ないでしょうが、平等院には樹齢280年と言われる立派なフジ(藤)があります。
 表門から入り少し進むと目の前に大きな藤棚が表れ、藤棚の向こうに朱塗りの鳳凰堂が見えてきます。
 10m四方以上はあると思われる大きな藤棚の下には、多数の驚くほど太い藤の幹が立ち並び、その樹齢の長さを物語るとともに、葉は青々と茂り樹齢数百年とは思えない活力にあふれています。

  

  (108-2) 浄土への思いを高める藤の花
訪ねた時は残念ながら藤の花は咲いていませんでしたが、藤棚の下は絶好の鳳凰堂鑑賞スポットになり、多くの人が藤棚の木蔭でゆっくりと鳳凰堂を鑑賞していました。藤の花が満開の時には、1m余もある優雅な藤の花が無数に垂れ下がり、鳳凰堂の華麗さを最大限引き立てるとともに、訪れる人の浄土への思いを高めることでしょう。
藤の花は万葉の昔から日本人が愛しめでてきた花ですが、この世では一時しか見ることができません。浄土では優雅な藤の花をいつも観ることができるのでしょうか。
(下写真、藤の花の小写真は平等院パンフレットより)
 
平等院は永承7年(1052年)に関白藤原頼通によって創建され、その翌年に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、その建物が現在「鳳凰堂」と呼ばれているものです。鳳凰堂は経典に描かれている浄土の宮殿をイメージしたものと言われ、この世で私たちが見ることができる極楽浄土の姿です。
平等院は鳳凰堂を初め数々の国宝を擁し、世界文化遺産「古都京都の文化財」の主要構成要素となっています。

 

  (108-3) 展望広場の松巨木
池(阿字池)をはさんで正面から鳳凰堂を見ることができる広場があります。池に映った優美な鳳凰堂の姿を展望し、しばし極楽浄土にきた夢に浸りますが、ふと気が付くとこの広場の一角に1本の松(クロマツ(黒松))の巨木が立っています。
この松は幹の直径が1mは超えていると思われる巨木ですが、枝ぶりを追求した普通の庭園の松とは異なり、すらりとした自然性の樹形であり、ここに松の木が1本だけ植えられていることには、何か強いメッセージ性を感じます。
 
松は冬でも葉を落とさず、いつも緑の葉を絶やさない常盤木として永遠の命の象徴です。ここに松を植え、それを守り育ててきた人たちは、常盤の命を願いつつ一方では極楽浄土を夢見る私たち人間の身勝手を諭しているのでしょうか。あるいは常盤の命を持つ松とは違い、私たち人間は明日をも知れぬはかない存在であることを語っているのでしょうか。
松が1本だけ植えられていることは何を意味しているのでしょうか。この世では家族や友がいても、浄土に行くときは一人であるという、人間の絶対的孤独を表しているのでしょうか。
一般に藤は女性を表し松は男性を表すと言われます。平等院の藤と松は女性も男性も区別なく浄土に行くことができることを表しているのでしょうか。あるいはこの世では女性・男性がいますが、浄土では男女の区別がない究極の男女平等の世であることを意味しているのでしょうか。

 

 (108-4) 松巨木の遠望

 鳳凰堂裏手の小高いところから鳳凰堂展望広場が見えました。そこからは広場に群がる観光客と広場に立つ1本の松巨木が良く見えましたが、松の巨大さに比較して人間の小ささに愕然としました。
 つい数十分前には私もそこに立っていたのですが、その時にはまだ自分が地面を這いまわる小さい蟻のような、小さくはかない存在であるとは気付いていませんでした。
 平等院の樹木を通じて浄土について色々考えさせられ、自らの存在の小ささとはかなさを気付かされました。

  

  樹木写真の属性
 樹  種 フジ(藤) [マメ科フジ属
クロマツ(黒松) [マツ科マツ属

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 樹木の所在地 京都府宇治市宇治蓮華116 平等院  
 撮影年月   2017年11月
 投稿者  木村 樹太郎  
 投稿者住所  島根県邑智郡川本町
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